先々週、神奈川新聞の文芸コンクール現代詩部門の審査員をした水野るり子さんの文章を引用させていただいたのに、詩を現実世界の労働とか報酬と簡単に、結びつけてしまい、まったく浅薄な自分に、後で激しく自己嫌悪でした。
「詩は現実の役には立たない」と水野さんが書かれたのは、もっと広い視野でのことです。後で気がつきました。あまりにも、自分の現実にひきつけて考えてしまって、もう、穴があったら入りたい!!
それで、じゃ、「詩が役に立つ」のはどういう場面か。ということです。
読む立場から考えてみました。
波長の合う詩に出会い、言葉のイメージを受け取ることで、そこに、淡い光のような空間が生まれる。たとえば、映画を観ると、今いる自分とは違った世界に入り込み、ときに主人公になったような気持ちになって、勇気が出たり、主人公の物語が直接、心に入り込んできて、幸せになったりする。ときに一緒に嘆いたりもするだろう。詩を読み感銘を受けたときも、同様な感覚を抱く。
しかし、媒体が文字のみであるとどうなのか。
文字の場合は、読むという作用によって、読者が自力で映像をつくり音楽をつくりさらに感銘を受けるといういくつかのステップが必要だ。
だから、とかくスピード重視の社会において、現代人は、すぐにこれが形になるのかならないのか、わからない状況で、いくつものステップを踏まねばならないということは、やはり、面倒なこととなってしまう。高いお金を払って、貴重な時間を費やしてまで堅苦しそうな本を手に取り、さらに読んで、楽しむまでにたどりつくのが、困難ということもある。
何回も、同じ本、同じ詩を読み返して楽しむ、という特に詩を読むときに求められる特徴は、スピード社会、生産主義の洗礼を受けた人たちには、なじみにくいものなのかもしれない。
スピード社会・成果主義の行きすぎは公害を生み、食物汚染をも許してしまうような、人間としてのプライドを忘れてしまい、利潤ばかりを追求する行為を生み出す結果に繋がってしまう。(今も、世間をにぎわせています)
この考え方から一線を画していかないと、詩の世界には入り込めない。
つまり、どっぷり資本社会に組み込まれ、忙しく働く人間にとって、詩はどうしても遠い存在となってしまう。詩を読むことには、なかなか到達できない。
では、詩はどんなときに役にたつかと言えば、前述したように、詩を読むことによって自力で受けたイメージから映像を作り、音楽をつくり、それなのに言葉がストレートに胸に伝わってくる、そんなことによって心に温かかったり哀しかったり楽しかったりというあわーい光がひろがってきて、じわーんと体に染み渡る。そんなことがおきたならば、すごく楽しくていい時間を、その詩とともに過ごせたことになる。
詩を読んで得をすることがある、というのは、こういうときだ。
現実世界から解放されて、自分だけの世界が広がったとき。詩は大いに役にたつのである。豊かになる。
そう。詩を読むことは芸術的な意味で精神が豊かになることなのだ。
で、気になっていたのは新宿眼科画廊でのワークショップ。詩の朗読会にあれだけの若い多くの人たちが集まるのは驚きだった。先行きのわからない閉ざされたような世の中で、(それは個々の心にも及び)自分の存在を確かめたい、自分を何らかの形で、「ここにいる」ことを表現したい、と思う人がたくさんいるのだと思った。そして「詩は役に立つのか」ということへ話が進んでいった。実はあのとき、少々いらついていた。色々な詩を書く人がいて、どことなく聞いたことのあるような言葉が言われていた。書くことがなぜ「ごはんが3秒はやく食べられる」という発想と結びつくのかが、私には理解できなかった。いやしたくなかったのかもしれない。
「ごはんが3秒はやく食べられる」この言葉自体が輝いていたので、詩を書くことと自然に結び付けられていった。「詩を書く・読むこと」は生きる上で位相が違う。食べることは人間の一次欲求だ。詩はそういう人間の一次欲求とは違うので、結び付けて語られてしまうのは、かなり無理があるし無謀なのだ。ワークショップとはいえ、せっかくなら、もう少し緻密に考えていったほうが、よかったかな、と思った。
それにしても、詩を書くことについて色々活発に意見が出たあの時間は貴重だったのろう。
話をもとにもどそう。
もし、会社の経営陣が芸術の理解者でない、としたら、やはり余裕のない一元的な方針を打ち立てやすいのではないだろうか。つまり、安全よりも利潤を追求し自分のみが金銭的に太る、ということを中心に考えがちになってしまうのではないかと思う。
先人の残した、または今このとき発せられている芸術を理解しようとする人なら、同じ人間が食べるものに薬物を混入したりはしない、と思ったりするのである。
つまり、詩をはじめとする、芸術は、人間の品格を高める役に立つのである。
話は飛ぶが、横浜詩人会授賞式の3次会に行った閉店間際の飲み屋で、すごくいい光景を見た。
なぜか、そこのマスターが横浜詩人会の油本達夫さんの本を手にとり、お客で来ていた若い男女のテーブルの傍に立って、読み聞かせて(朗読して)いるのである。
客の男女は、神妙に聞いていた。マスターはまるで説教を施す神父のようであった。いやもっと自然体だったかな。
詩の朗読って、こんな形もいい、と思った。ほろ酔い加減のお客さんのテーブルで、タイトルの並んだメニューを見せ、リクエストに答えて、その人たちのために読む。そんなこともしてみたいと思った。