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2008年10月29日 (水)

いい同人詩誌は装丁もいい。

「hotel 第2章」no20 「rupure」7 「生き事」第4号 「六分儀」n°33 「独合点」95などが机に並んでいる。1日13時間くらいは仕事をしているため、満員電車のわずかな隙間を利用して読ませていただいている。角や表紙が少々痛んでしまって、申し訳ない気持ちになる。

力のこもった詩誌は、表紙もそれぞれに美しく異彩を放っていることに気付く。

気もちが表紙に現れるのだろうか。

「生き事」は松下育男さんにメールして注文した。先着5名に入ったようで、欲しいなと思っていた岩佐なをさんの可愛い銅版画を見事にゲット!嬉しい!!松下さんの「初心者のための詩の書き方」も付録にあって、またこれが、私の大好きな紙が選ばれていて、おしゃれな茶色い袋に入っていた。袋には襷のようにかっこよく紙がななめにかかっていた。{わ、素敵!と思わず声に出しました)男性ばかりの詩誌だというのに、こんな風におしゃれな詩誌作りができるんだなーと(すみません、これってセクハラ?)思いしばらく眺めていました。

内容に関しては、ゆっくりと、かたつむりの歩みで紹介させていただきますので、気長にお待ちくださいませ。

今日は、図書館で、昭和51年に講談社から出版された小中学生を対象にした『コタンの口笛』2部を借りた。1部は、小学生の時に読んだ。あまり内容は覚えていないのだが、子供ながら、なぜ、人はこんなにも同じ人間なのに先住民族をいじめ文化を奪い取るのかと思い、悔しくてならなかったので、とても印象に残っているし、またどこかでこの本に会いたいと思っていた願いが実現した。2部が出たのは知っていたかもしれないが、気に成りながら、その存在は遠いものになっていた。

黄ばんだ頁のところどころからアイヌ語で月を表す素敵な言葉が紹介されていた。美しい言葉だと思った。まだ読み始めたばかりだが、これもまた満員電車のなかの小さな空間で読みたい。空間のできそうな電車と車両がだんだんわかってきたので、それを目指して、朝はさらに早く家を出れたらいいと思っている。

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2008年10月26日 (日)

『SOOHA スーハ!』第4号を読んだ。

同人詩誌『SOOHA スーハ!』(よこしおんクラブ)を読んでいた電車の中で、突然、涙が込み上げてきて号泣しそうになった。人の視線を感じて堪えた。自宅に戻って、ゆっくり読み返した。

『SOOHA スーハ!』第4号は、『血のたらちね』(書肆山田)で、第17回丸山豊現代詩人賞を授賞した古賀忠昭さんの追悼特集だった。

古賀さんの娘さんの古賀繭さんのインタビューと共に、鍋島幹夫さん、山本源太さん、中尾太一さん、稲川方人さんらが、故人に文章を寄せている。

また、未刊詩集『古賀廃品回収所』より、「焼肉と思想」「エヘヘヘヘ」が収められていた。

「焼肉と思想」は、霜月、11月の寒い日に、リヤカーで亡くなった廃品回収業をしていたもろふじさんが、友人の金さんに遺した「犬のように殺してくれ…殺したらおれの肉をくうてくれ」という言葉を軸に、もろふじさんの友人だけの葬式でのやりとりが描かれていた。そこに虚構はなく、人の尊厳に関わる非常に重い内容を、体の中から、するすると糸を吐き出すように、古賀さんは書いている。

娘さんの古賀繭さんのインタビュー「父の最期に起こったこと、そのすべてに 意味があるのだと思います」に圧倒された。インタビューの内容に並行して「遺書ノート」や亡くなる直前の写真が公開されていて、10枚(生前の古賀さんご本人が海を見て立っている写真やインタビューに応じる繭さんの写真を入れればさらに数が増える)を行きつ戻りつしながら集中して読んだ。

(この日は通院で、電車という移動手段でありながらも一時間は座って落ち着くことができるので、車中でのこの時間は私にとって貴重な読書タイムでもある。)

重篤な病に罹り、治療法について話し合う古賀さんや医師とのやりとりを耳にした古賀繭さんの、

「…ほかにも、全額自己負担でやる抗がん剤とか、まだ幾つか方法があったんですね。効くかどうかはわからないですけど。多分お金が何百万円もかかるようなものも幾つかあったので、そういうのをしたいとは私は言ったんです。そんな、どうにもなるのかわからないようなことをしなくてもいいと父は言いました。………

それでも私は、自分の中に貧乏なことへのコンプレックスがあるのか

『家にお金がないから治療を受けられないんだ。お金持ちだったら助かるかもしれないのに。お金がある人には受けられる治療が他にもたくさんあるのに、お金がない人には受けることができないんだ』

という気持ちがあったんです。

身体がガリガリになっているのに…」(抜粋)

という言葉(強い思い)に、とても共感した。自分が貧しいことへのコンプレックス…、だからこそ、お金は絶対に払いたいという気持ち…。まだお若いのに、こんなふうに言葉でコンプレックスを語れる繭さんの鋭い自己分析力と気丈さに驚いた。

死を覚悟しなければならない病に罹ったことで、古賀忠昭さんは、30年間封印していた詩を、ほとばしるように書き始めた。その詩群は、詩人、稲川方人さんの目にとまり、『血のたらちね』として書肆山田から刊行された。

再び、娘さんの古賀繭さんのインタビュー(抜粋)に戻る。

「稲川さんが来てくださって、父は本当に嬉しかったようです。

『血のたらちね』はすごく良い感じに仕上がっていて、表紙のカバーをはずすと、そこにも詩が印刷されている。「こんなに素敵な本ができたのは初めてだ」と父は本当に喜んでいました。……」

死を覚悟して書いた詩人の本が、晴れて満足する形で出版出来たときの喜びとは、どれほどのものだったろう。詩を書いて出版する人間ならば、想像に難くないだろう。

堰を切ったように涙が溢れてこようとした。理屈ではなく身体が反応した。そして、未刊詩集『古賀廃品回収所』の「詩と思想」「エヘヘヘヘ」を読む。

圧倒され深く感動した。

故人となってしまった古賀忠昭さんに対する稲川方人さん、鍋島幹夫さん、山本源太さん、中尾太一さんら、そして「SOOHA! スーハ」同人の詩人たちの誠実な対応が、靄のような霧のような広がっていく魂のように溢れ出て、読む者の心を鷲掴む。

「SOOHA! スーハ」第4号を受け取ったとき、手に、ずっしりとした普通ではない重みを感じたのは、古賀忠昭さんという詩人の存在と、この方々の思いなのだと合点した。

PS・

涙を出すこと…、私は普段、これをできない。まして人前では、滅多にできない。しかし今回は電車の中なのに涙が出てきた。

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2008年10月20日 (月)

私はセックスをするように詩を書いているのかもしれない。

前回、詩を読むことは、人間の一次欲求とは一線を画していると書いた。

しかし、私は、詩をセックスをするように書いているときもあるかもしれない。食べるように詩を書くことは確実にある。ときに呼吸をするように詩を書くこともある。

それは、読むときも同じで、やはり、人によっては、詩を書くことや読むことが、人間の一次欲求に似た欲望として存在することはあるかもしれない。

詩を身近に感じている人はそうかもしれないけれど、一般的な人には、あまりあてはまらないんだろうな(笑)。

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2008年10月19日 (日)

詩は役に立つ。

先々週、神奈川新聞の文芸コンクール現代詩部門の審査員をした水野るり子さんの文章を引用させていただいたのに、詩を現実世界の労働とか報酬と簡単に、結びつけてしまい、まったく浅薄な自分に、後で激しく自己嫌悪でした。

「詩は現実の役には立たない」と水野さんが書かれたのは、もっと広い視野でのことです。後で気がつきました。あまりにも、自分の現実にひきつけて考えてしまって、もう、穴があったら入りたい!!

それで、じゃ、「詩が役に立つ」のはどういう場面か。ということです。

読む立場から考えてみました。

波長の合う詩に出会い、言葉のイメージを受け取ることで、そこに、淡い光のような空間が生まれる。たとえば、映画を観ると、今いる自分とは違った世界に入り込み、ときに主人公になったような気持ちになって、勇気が出たり、主人公の物語が直接、心に入り込んできて、幸せになったりする。ときに一緒に嘆いたりもするだろう。詩を読み感銘を受けたときも、同様な感覚を抱く。

しかし、媒体が文字のみであるとどうなのか。

文字の場合は、読むという作用によって、読者が自力で映像をつくり音楽をつくりさらに感銘を受けるといういくつかのステップが必要だ。

だから、とかくスピード重視の社会において、現代人は、すぐにこれが形になるのかならないのか、わからない状況で、いくつものステップを踏まねばならないということは、やはり、面倒なこととなってしまう。高いお金を払って、貴重な時間を費やしてまで堅苦しそうな本を手に取り、さらに読んで、楽しむまでにたどりつくのが、困難ということもある。

何回も、同じ本、同じ詩を読み返して楽しむ、という特に詩を読むときに求められる特徴は、スピード社会、生産主義の洗礼を受けた人たちには、なじみにくいものなのかもしれない。

スピード社会・成果主義の行きすぎは公害を生み、食物汚染をも許してしまうような、人間としてのプライドを忘れてしまい、利潤ばかりを追求する行為を生み出す結果に繋がってしまう。(今も、世間をにぎわせています)

この考え方から一線を画していかないと、詩の世界には入り込めない。

つまり、どっぷり資本社会に組み込まれ、忙しく働く人間にとって、詩はどうしても遠い存在となってしまう。詩を読むことには、なかなか到達できない。

では、詩はどんなときに役にたつかと言えば、前述したように、詩を読むことによって自力で受けたイメージから映像を作り、音楽をつくり、それなのに言葉がストレートに胸に伝わってくる、そんなことによって心に温かかったり哀しかったり楽しかったりというあわーい光がひろがってきて、じわーんと体に染み渡る。そんなことがおきたならば、すごく楽しくていい時間を、その詩とともに過ごせたことになる。

詩を読んで得をすることがある、というのは、こういうときだ。

現実世界から解放されて、自分だけの世界が広がったとき。詩は大いに役にたつのである。豊かになる。

そう。詩を読むことは芸術的な意味で精神が豊かになることなのだ。

で、気になっていたのは新宿眼科画廊でのワークショップ。詩の朗読会にあれだけの若い多くの人たちが集まるのは驚きだった。先行きのわからない閉ざされたような世の中で、(それは個々の心にも及び)自分の存在を確かめたい、自分を何らかの形で、「ここにいる」ことを表現したい、と思う人がたくさんいるのだと思った。そして「詩は役に立つのか」ということへ話が進んでいった。実はあのとき、少々いらついていた。色々な詩を書く人がいて、どことなく聞いたことのあるような言葉が言われていた。書くことがなぜ「ごはんが3秒はやく食べられる」という発想と結びつくのかが、私には理解できなかった。いやしたくなかったのかもしれない。

「ごはんが3秒はやく食べられる」この言葉自体が輝いていたので、詩を書くことと自然に結び付けられていった。「詩を書く・読むこと」は生きる上で位相が違う。食べることは人間の一次欲求だ。詩はそういう人間の一次欲求とは違うので、結び付けて語られてしまうのは、かなり無理があるし無謀なのだ。ワークショップとはいえ、せっかくなら、もう少し緻密に考えていったほうが、よかったかな、と思った。

それにしても、詩を書くことについて色々活発に意見が出たあの時間は貴重だったのろう。

話をもとにもどそう。

もし、会社の経営陣が芸術の理解者でない、としたら、やはり余裕のない一元的な方針を打ち立てやすいのではないだろうか。つまり、安全よりも利潤を追求し自分のみが金銭的に太る、ということを中心に考えがちになってしまうのではないかと思う。

先人の残した、または今このとき発せられている芸術を理解しようとする人なら、同じ人間が食べるものに薬物を混入したりはしない、と思ったりするのである。

つまり、詩をはじめとする、芸術は、人間の品格を高める役に立つのである。

話は飛ぶが、横浜詩人会授賞式の3次会に行った閉店間際の飲み屋で、すごくいい光景を見た。

なぜか、そこのマスターが横浜詩人会の油本達夫さんの本を手にとり、お客で来ていた若い男女のテーブルの傍に立って、読み聞かせて(朗読して)いるのである。

客の男女は、神妙に聞いていた。マスターはまるで説教を施す神父のようであった。いやもっと自然体だったかな。

詩の朗読って、こんな形もいい、と思った。ほろ酔い加減のお客さんのテーブルで、タイトルの並んだメニューを見せ、リクエストに答えて、その人たちのために読む。そんなこともしてみたいと思った。

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2008年10月17日 (金)

知里幸恵の「アイヌ神瑶集」

NHK[そのとき歴史が動いた」で知里幸恵の業績が詳しく報道されていた。

病をおしながらも、東京の金田一京介の研究の手助けするために上京した。、大学ノートの見開き2ページの左ページには文字のないアイヌ語の音表現をローマ字で記し、右ページには、知里自身による邦訳が、とても丁寧な字で書かれているのが、映し出された。

以前に購入してくりかえし読んだ冒頭の美しい言葉を思い出した。

           銀のしずく降る降るまわりに

                金のしずく降る降るまわりに

自然を敬い、必要なだけ自然の恵みからいただく…という精神を我々は忘れてしまっている。

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2008年10月13日 (月)

辻和人さんが、『翅音』の感想をHPに書いてくれました。

辻和人さんがHP・POETORY PORTの<錨>日々の雑感のコーナーで、『翅音』(はねおと)(砂子屋書房)の感想を書いてくれました。

とても嬉しいです。ありがとうございました。

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秋晴れ。

昨日は横浜詩人会賞の授賞式。

今年度は柴田千晶さんの『セラフィタ氏』(思潮社)です。

おめでとうございます♪心からお祝い申し上げます。

             ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

深夜に帰宅し、早朝起きる。

頭の中で、言葉が常に文章になって(汗)、蜂のようにぶんぶんぶんぶんぶかぶんぶんぶかぶかぶかとうるさいのです。詩ならいいのですが、そういうことでもなく、…。PCの画面の奥に巨大なテーブルが広がっているイメージです。そのテーブルの上で顔の見えない沢山の人の手がキーボードを叩いています。これは、少々、病ではないかとも思えるのです。

今、ここで、自分が、何故、こうしてネット上で文章を発信しているのか…。自分自身をただ薄く透けさせていくだけではないか。そんな気がしています。

つぶやきはあくまでつぶやきでしかなく、…(あくまで、私の場合ですが)。

テーマを絞って、発信することに意味を持たせていくべきでは…そんな気がしています。

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2008年10月11日 (土)

夜中まで、お掃除してました。

いやぁ、昨日は、興奮してしまって、我らが村野美優さん!などと有頂天なこと書いてしまいました。でも、ほんとに嬉しかったなぁ。

改めて、美優さん、おめでとうごさいます。

(初代猫のミュウちゃんは、1960年代に生家で、まだ眼があいていない状態の仔を保護して飼っていて、現在4歳のミュウ猫様にも迷わずその名をつけたのですが、どういうわけか、美優(みゆう)さんと、名前が酷似。失礼いたします)

で、ほんとは、昨日お掃除しなきゃならなかったのに、結局昨日は一日眠り込んでしまっていて、今日は、慌てて午後から今現在、夜中の3時まで掃除をしていたわけですが、全く、終わりそうもありません。散らかった後の奥が深すぎます。リビングと和室のたまっている書物や新聞をなんとかしなくちゃ。それからダイニングテーブルに隙間なく置かれているどうでもいい物たち、電話の横のレターボックスに、ばさばさ入れ込まれている介護施設に入院している父関係のわけのわからない手紙類。……ほんとは、あとまる一日は必要なんだけど。

ま、掃除をしなければならないチャンスというのは、ある意味、ありがたいものです。何気なく使っていたプラスチックのゴミ箱に、結構臭いが付着していたり、床に這いつくばって雑巾がけをしていると、その視線から、いろいろな汚れが見えてくるし。

明日(っていうか、今日の10時)、家の水回りの検査が入るのです。つまり家の恥部を見せることになりかねないわけです。こういう点では、俄然プライドを保とうとしてしまう私なので、人が入りそうなところは、事前にお掃除、ということになります。

ある程度、お掃除しておかないと、ご迷惑をおかけすることにもなるので心苦しい限りです。

例の例の松居棒(あの、マツイボウ、です)まで買ってきて、頑張ろうと思っていたんですが、まだそこまでも進んでいません。

半べそをかきそうになりながら床拭きをしていると、ミュウちゃんが、そーっとそばにいて見守ってくれていました。階段を一段拭くと一緒に一段降りて見ていたので、何となく私のあまりのお掃除の大変さにつくため息から、どこか、一緒にいてあげる、なんだか、いつもと違って心配だにゃん・・・という思いだったのかもしれません。 そのとき、ミュウちゃんは、全然遊びを仕掛けてくるわけではなく、ただ、ずっと傍にいてくれて私の様子を見守ってくれていたんです。

夜、11時過ぎに夫が帰宅し、第一声が「これじゃ、変更してもらったほうがいいんじゃない?」ということ。明日(っていうか今日)の午前中にお願いしているので、断れない感じである。しかも、もともとは今日(昨日)が、その日で、業者の関係で、変更となったので、これ以上はずるずるしたくないし。

結局、明日は(っていうか今日は)、すごい状態を耐えていただいて、検査していただくことになる。

この時期になると、必ず、浴室の脱衣所においてある、ミュウちゃんのトイレがきつく臭う。また明日(はい、今日ですね)、原因をつきとめねば。

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2008年10月10日 (金)

フランス人作家、ル・クレジオさん、ノーベル文学賞受賞!!

 ル・クレジオさんの「黄金の魚」「はじまりの時」を翻訳したのが、詩人で横浜詩人会と同人詩誌「ひょうたん」に所属している、我らが村野美優さん。

産経新聞のインタビューにも「いつかは必ず取る人だと思っていたが、こんなに早いと思わなかった」というコメントを寄せています。

クレジオの小説に出会い、是非とも原文で読んでみたい、翻訳してみたいと思ったことがきっかけで、美大卒業後に、上智大学の仏文科で学ばれた方です。

おめでとうございます!!!

これをきっかけに、クレジオさんの小説がばんばん売れて欲しいです♪

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2008年10月 9日 (木)

猫のミュウちゃんがついに家出した。

以前に公開した写真ですが、気に入っているので、再度公開します。やっとアップできたのですが、何故か、いつものように大きくできないので、クリックして見てください♪

ソニーサイバーショットで写したものです。ニコンD80の写真がうまくアップできなくなってしまってます。(汗)

Myphoto_095 Myphoto_849 今日はくつろぐ日と決めて夕方のニュースの続きでつまんないTVを2時間ほど観てしまった。はて、ミュウちゃんの姿が見当たらない。まだ、いじけてるのかなーと思って、ちょっと名前を呼んでみる。かなり遅れて足音がするか、ヌボーッと、どこからともなく出てくるのだが、今日はいくら呼んでも、姿を現さない。

仕方なく、寝ていそうな場所を、チェックしていくが、どうしても見当たらないので、クローゼットの中や、浴室も確認。しかしいない。

夕方、早めに家のシャッターを下ろした。

気をつけないとミュウちゃんがさーっと隙間から外に飛び出てしまい慌てて取り押さえることがある。

だから、いつもミュウちゃんの居場所を確認して、隙間から出ないようにガードしてからシャッターを下ろしている。今日もかなり周到に注意を払っていたはずなのだ。

まさか、と思い、ベランダを開ける。いない。

まさか、まさか、と思いつつ、ベランダから「ミュウちゃん!」と呼んでみる。微かに下の方からミュウちゃんの声がしたような気がした。

玄関を開けて、「ミュウちゃん!!」と囁いてみたら、「ニャン!!」と返事が。

「ミュウーちゃあん!!どこなの???」と慌てていると、闇の中から尻尾を逆立てたミュウちゃんが寄ってきた。

いったい、2時間半も、お外で何をしていたのか。もうっ、ミュウちゃんったらぁー。。。。。(涙)

しかし、いったいいつの間に???

あんなに注意深くシャッターを下ろしたのだが、あのときしか考えられないのである。

いや、もしかしたら夕刊を取りに玄関を出たときだったかもしれない。。。。。

闇と補色(キジトラ)のミュウちゃんが外に出るのを見逃すなんて。我ながら自信喪失。年のせいか。。。。。

慌てて玄関に入れると、ミュウちゃんは、廊下を走って、とりあえずトイレを確認し、その後、また玄関へ向う。安心したら、やっぱり、お外がいいなーという仕草である。

不憫になり、抱き上げて、外に出る。ちょっとだけ半月をミュウちゃんと鑑賞。

しかし大事に至らなくてよかった。家の前は大通りで、車の通りが激しい。

ミュウちゃんは今、お馴染みのダンボール箱の上でお腹を出して、寝入っている。その寝顔は心なしか、積年の疲労が滲み出ているようだ。

もう、夜の家出は勘弁してね。

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2008年10月 8日 (水)

ニャン権尊重。

詩やアートなどに関する内容が続いただけに、

ちょっと唐突ですが……。

(たまには、閑話休題ってことも必要ってわけで。)

猫のミュウちゃんの我儘がひどくなってきた。

そりゃー、確かに。

先週の日曜日は餌が切れてしまって、それでも飼い主は外に出る気力が無くて、ひもじい思いをさせてしまったかもしれない。

確かに、夫のケイタイの留守電に、ミュウちゃんの声を録音するべく、多少いじめて、悲鳴を上げさせることを数回重ねたかもしれない。

確かに。確かに。手持ち無沙汰のときに、嫌がるミュウちゃんをぬいぐるみのように手足を動かして、まぁ、ちょっと、いたぶったかもしれない。

確かに。確かに。確かに。可愛さ余って、押さえつけて噛み付くことも多々あったかもしれない。

だから、だからね、この前の日曜日の夜は、清水の舞台から、いやランドマークタワーの屋上から、飛び降りるごとく、ごめんの気持ちを込めて、ひとつ350円(ぐらい、だったかな)の高級猫缶のプルトップをプチッと開けて、大盤振る舞いして差し上げたじゃない。ねぇねぇねぇ。

でしょ?ミュウ猫様ぁ。

しかし、一日、いや実は一日半、ひもじい思いの後のゴージャスな食事にありつくまでは、ストーカーのように私につきまとっていたミュウ猫様だが、その日を境に、荒れはじめた。

(いや、荒れているのは私か?)

豪華な食事をした直後から、ミュウちゃんの悪戯が酷くなってきた。レースのカーテンで収まっていた爪研ぎが、今はイタリア製のオーダーカーテン(ま、だいぶ古びてきましたが)に波及している。

抱き上げると腕をがぶっと噛んだりするわけで。

人間不信になっているのかもしれない。

確かに。こんなにレアな美味しい猫缶の存在を知らないまま、いつも安いドライフードを食べさせられていたわけで。

餌のお皿に盛られたドライフードを見てから、ふっと、飼い主を斜に見あげ、

「えぇーっ、今日もこれかよ、おいおい」

てな感じな顔をして、しばし食べずに飼い主を見あげるだけのポーズが、かなり堂に入ってきた。

ミュウ猫様。

数々の失礼、お許しくださいませ。

ニャン権尊重をお約束いたします。

(反省です)

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2008年10月 4日 (土)

神奈川新聞の文芸コンクール欄で水野るり子さんと北方謙三さんの文章を読んだ。

神奈川新聞10月4日の神奈川文芸コンクールの欄で、選者をした詩人水野るり子さんと小説家北方謙三さんの文章を読んだ。

水野さんの詩に対する文章は、とてもわかりやすくて、深い感動と共感を得たので、ここに、引用させていただきます。

言葉は内にひそむ(抄)  現代詩(部門審査員)  水野るり子

……詩には必ずしも書き手の人生がそのまま表れるわけではありません。が、無意識的な面も含めて、その人の生き方や個性が見えてくることがあります。表現とはそういう意味でこわいものかもしれません。逆に言えば詩は日常のレベルでの意識をこえて、より深い自己の真実に迫る方法であるともいえます。

 詩作は直接現実の役に立つ行為とはいえません。でもせっかく時間を費やして、自己自身の表現をつかもうとするならば、あえて世間と馴れ合えない(自己に正直な自分)の思いを発見し、そこから言葉をつかみとってきて欲しいと思います。詩を生み出すには、だから集中力が必要です。海の底に潜水して、何かを手に再浮上してくるように、自己の深みから手垢のついていないどきっとする表現をつかみとってくる…そんなユニークな時間が必要です。……

詩を実作していない人や詩を書き始めたばかりの人にとっては、とてもわかりやすく、また詩を書いている人にとっては、励まされるような文章だった。

水野さんの「現実には役に立つ行為ではない」というのは、詩だけでは、現実にお金を稼ぐことには繋がらないという意味だと思う。

詩を書いている私は、書かずにいられない詩ではあるのに、詩でお金を遣い果たしはするが(笑)、詩でお金は全く儲からない(笑×2)。限界のように感じている今の仕事を辞めたら、どのように生きていったらいいのだろう…という思いが常に頭をよぎっているし、余暇の大半はこの現実には役に立たない詩に向っている。なんだかくさくさしてくるわけで。

私がこの「詩は役に立たない」という言葉を、もう少し自分として整理しようと思ったのは、9月に聴きにいったクロスオーバー誌「もーあしび」の詩の同人たちの朗読会の後に行われたワークショップで、参席した若い方々から「詩は何の役に立つのか」というような意見が出て、けっこう盛り上がったことが頭にひっかかっていたからだ。(このことについては後ほどブログに書きます。)

いい詩に出会えば、繰り返し読み、いい絵や輝く宝石を見てふと心が揺れたり癒されたりときに安息を感じたりするのと同様な思いを抱き、豊かな時間や経験を得たと思うことができる。

そして詩を書くことは、まさに、水野さんの書かれている通り、

海の底に潜水して、何かを手に浮上してくるように、自己の深みから手垢のついていないどきっとする表現をつかみとってくる…」

ことだ。簡単には言えないが書くことで自分の深部に入り込み、表層意識では気がつかなかった自分の姿や可能性を、まるで釣果のように捕まえられることがある。

詩は読む人にとっても書く人にとっても、現実の稼ぎとは無関係の存在かもしれないが、詩を読んだり書いたりする人間に、精神の世界で大きな形にはならない豊かな時間や意識を与えてくれるのである。

念のため、あえて書いておくけど、水野さんの文章は、このようなことは大前提として、書かれているのである。

仕事を続ける続けないでくさくさしていた私にとって、水野さんの言葉は、大きな励ましとなった。現在のこの時点では、詩は、多くの場合、金銭とは無関係なところで繰り広げられる豊かな芸術だ。だからこそより崇高な存在なのだ。

私は、現代人みんなが崇高な精神をもつ人間になって欲しい(笑)。

そして、興味深かったのは、小説家の北方謙三さんが、やはり似たようなことを書かれていることだ。

自己を見つめる眼を(抄)   短編小説(部門審査員) 北方謙三

……全体的には、小さくまとまったものが多かった。小さくまとめるのも、たやすい技術ではなく、そういう意味で、勉強している人は多いだろう。ただ、そういうものを超えたところに、創造の醍醐味はある。技術的には駄目だが、なにか捨て難いものがある。たとえば熱気であるとか、衝動であるとか、つまり命そのものを感じさせるものを持っているのが、創造物と呼べるのではないのだろうか。技術は、書き続けていれば、いくらでも磨ける。自分を見つめる眼から出発し直してもいいのではないか、と思った。……

こちらも、書き写しながら、鳥肌が立ちました。

 

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2008年10月 3日 (金)

昨日の文章を少々、加筆・修正しました。

昨日、8月30日(土)の「まりボール・まりトーク」のワークショップへの参加について、書きましたが、少々、加筆・修正しました。

ご興味のある方は、是非、再読していただけたら嬉しいです♪

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2008年10月 2日 (木)

8月30日(土)は「まりボール・まりトーク」に参加した。

ついに10月になってしまいました。今年も2ヶ月で終わってしまいます(汗)。

お久しぶりです。なかなかブログが更新できませんでした。それに時間をかけて書いていたら、いきなり消えてしまった日もあり、凹んでしまってもいたわけで。。。。情けない。。。。。

と、言うわけで、今日は、何故か画像がうまくアップできずに、画像なしで失礼します。

気がついたらもう、あれから1ヶ月以上が過ぎていたのでした。

鈴木志郎康さんのご紹介で鈴木真理子さん主催の「まりボール・まりトーク」に8月30日(土)に参加したのです。

何故、興味を持ったかをまず書きますね。(このごろ日本語さえ不自由になってしまいました)

かれこれ15年くらい前にカウンセリングのワークショップに参加したことがありました。そのとき、5,6人のグループで鉄やビニルなど素材の違うボールを、円陣になり、目を瞑ってリレーのように渡し合うということを経験しました。その後、カウンセリングの先生に、ボールを受け取ったときに、どんな感じがしたのかという感想を求められ、それぞれ言い合いました。

私の場合は、素材に関係なく、初めはとても冷たい感触を受けたそれぞれのボールが、巡る回数が増えるたびに、温い感触になりました。それは、まさに私が初めて人と出会ったときに感じる感触そのものであったことを自覚し、鮮烈な印象として残っていました。

つまり、私は、当時、ものすごく人見知りをする人で(今も、かな?)、緊張感が先行してしまうあまり、初めて出会った人をすぐに受け入れることができずに、人に対して冷たい印象を受けることの方が多くあったのでした。もちろん今はだいぶその傾向は減少してきています。そして、ものすごくスローペースで時間がかかったあげくに、やっと、その人のよさを感じたりその人に心を開けたりするのでした。

それから、やはりこれもだいぶ昔(笑)のことなのですが、英語教授法という授業を受けたときに、ビーチボールを相手に手渡しながら「How are you?」「I'm fine ,thank you」などの会話をするのです。ビーチボールを受け取ることで、相手の言葉を体で受け留めます。また、形として受け取ることができます。それは、渡すときも同様です。しかも会話の繋がりを視覚でも捕らえることができるわけです。

受け渡しをするボールは、不思議な役割をすると感じていました。

そこで、「まりボール・まりトーク」です。鈴木真理子さんは、日本語の先生で、日本語学校で日本語を教え、大学(現在は桜美林大学)では口語表現の授業をしています。

「話が思いつかない」という学生のアイスブレイキングやウオームアップとして、真理子さん考案の「まりボール」を使用するということです。

以下の文章は、真理子さんの「ライティング・ワークショップ 2008年8月までの実践報告」を参考にし、本文を引用させていただきつつ、参加した経験を書かせていただきます。

「まりボール」と命名された32面体のボール(100円ショップで売っているそうです)に自然をテーマにした言葉(春、夏、秋…風…花…、etc)、行動をテーマにした言葉(食、学、…遊…etc)などを、テーマ別に各々の「まりボール」の32面に書かれています。

はじめは、ボールに書かれている言葉とは関係なく、お互いにキャッチボールをしながら渡された相手の言葉からの連想ゲームをします。また、逆に、反対の言葉を言うバージョンもあります。それらの活動をしているうちに、自分の心がほぐれ、一緒にワークショップをしている人たちと打ち解けた感覚を抱くようになりました。

お互いに打ち解けたところで自己紹介をしました。初めてお会いした人たちばかりの中なのに、一足飛びに高い壁を越えてしまったかのように、自分のことを喋ることができました。私にとっては衝撃的な自分とのそして人との出会いでした。

また、グルーピングをしてボールをやりとりします。利き手の親指が当たった面の言葉から連想して発話します。たとえば、親指が「風」の面にあったら、風をキーワードに「今日は風が爽やかだ」などと思いついた文章を言いながら、別の人に渡す…ということを繰り返していくうちに心がほぐれイメージも湧いてくる、という活動です。これは、グループのメンバーを変更しつつ繰り返されます。

私が所属したグループでは不思議と「木」という言葉が多く出ました。(利き手の親指が当たりました。)私は「木が切られて痛い」と言いました。

感想を言い合う場面で、「木が切られて痛い、と聞いて、ドキッとした」という人がいました。それで、私は、何故「木が切られて痛い」のかを話そうと思いました。

話す内容の下書きのような簡単なメモを書き、それに基づいて、私は、「木」について、その朝目撃した出来事の話をしました。(順番がわからなくなりました。もしかしたら、はじめに話したのかも…。真理子さん、ごめんなさい)

それについてグループの人たちから、付箋に感想を書いてもらいました。切られた大木のことで頭が一杯になっていた私の気持ちを、皆さんとても理解してくれ、優しいコメントを書いてくださいました。更に、そのコメントと、コメントをいただいた自分の気持ちに基づいて、以下のような作文を書きました。

「タイトル  木が切られた                                        

自宅近くの森がいよいよ宅地になることになった。昨日、起重機が入っていて「いよいよ」と思っていたが、今日、この「まり・トーク」に来るときに、まさに大木が切り落とされるその瞬間を見てしまった。ギィーッっと木が地面にぶつかる大きな音が出て、生生しい断面が目に入った。胸が痛くなった。現在住んでいる場所も、昔は、その森の延長であったはずだ。複雑な思いにかられる。

小さな森は、通勤時、毎朝、野鳥のいろいろな声にいやされながら、通っていた道の横にある。

木を切る、木で家を作る…こんな身近な存在である木(である)が(のに)、たった一本だけの木が切られる所を見てしまった…立ち会ってしまった…ことがどうして、こんなにも、自分の心に印象として強く残ってしまうのかと思った。」

その後、参加者全員(7人)で、お互いの作文を読み短いコメントを書きました。

私の文章を読んで、どの方も、とても細やかで温かいコメントを書いてくださいました。

そして私は最後の一言感想にこう書きました。

「木が切られることは皆もいやだと(いうことが)わかった。山の神様という言葉には自分も小さい頃に慣れ親しんだので、気持ちが動いた。一つの文章を読むにも、その人のバックグラウンドがわかると思った。植物から(木の様相から)、自分の(私自身の)人生や状況を重ねていたのだろう」

( )は今付けたしました(汗)。

アイスブレーキングそしてウォームアップをすることで、お互いに打ち解けあった雰囲気になったことで、リラックスし、自分の中でも、かなり深部にある普通だったら口にさえしなかったかもしれない心境を、作文に書くことができました。

初めてお会いした方たちなのに、とても親しい感情が湧いて、いっぺんに仲良くなれたような気がしました。

また、参加者と、打ち解けて雑談するうちに、私の出身大学の高等部に通学していた人がいたり、勤め先の関係に出向していた人がいたり、と人はどこかで繋がっていると実感しました。

人とのコミュニケーションが苦手な私なのに、いい汗かいたという爽快感を味わいながら帰路の電車に乗りました。これは、前に書いたように、かなり衝撃的で感動的な感情でした。

ところで、真理子さんは存在感のあるとても素敵な女性です。その日、真理子さんはどんぐりのペンダントをしていました。可愛いペンダントだったので、つい視線がそちらに向いてしまっていました。そういう形のペンダントを初めて見たのです。

蛇足ですが……。帰路の電車の中で、私の前に座っていた女性が、真理子さんのと比べると、ずっとシンプルな形でしたが、どんぐりのペンダントをしていたのです。今日はシンクロの連続だと思って、不思議なことは、やはりあるものなのかな…と、感じました。

☆文字数が多いためか、画面が安定せずに、今日は、ひやひやしながら書きました。不十分な部分があるかもしれませんがお許しくださいませ☆

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